2011年8月15日月曜日

コクリコ坂のこと

「コクリコ坂から」はとても好きな映画なのだけど、素晴らしい映画だとはなんとなく言いづらい。その理由に気がついた。
コクリコ坂には好みのものがたくさん詰まっている。
凛とした雰囲気と癒しの空気を同時にまとったヒロイン、旅立ちの匂いを帯びたまっすぐな少年、少年たちの対立と友情、古き良き魔窟と、そこに巣食う救い難い物好きたち、力を合わせる若者たち、いざという時に高らかに歌われる様々な歌。大好物のコース料理みたいだ。嫌いになる方がむつかしい。
その一つ一つの品物は良くできていて、どれも料理として十分逸品に仕上がっているから、一通り食べたらきっちりお腹はいっぱいになるし、満足できるのだけど、コースとしての主張が弱い……のではないかと、遅まきながら気づいた。綺麗なものが綺麗に並んだ結果、大きな起伏のない物語になった。
宮崎駿がもしコンテをかいていたらどうなったろう、と想像する。コンテをかくにつれ、脚本で示されたクライマックスと解決では足りないと感じて、物語と演出の改変を試みて、制作は遅れただろう。素晴らしい解決を見つけて、より完成度の高い映画になったかもしれないし、もしくは着地点が決められずに、言いたい事の半分も伝わらない難解な結末になって論議を呼んだかもしれない。いずれにしても、脚本のまま終劇にはしなかったのではなかろうか……そんな気がする。
大筋において宮崎吾朗は、宮崎駿の脚本をどう活かすかというところに腐心してこの作品を作ったのではないかと思う。一方で、宮崎駿は自分の脚本でさえ、コンテを切る時にはぶち壊してきた人ではないか。自分が表現したいことのためには、いくらでもちゃぶ台を返す人だと思う。というか、優れた表現者にはちゃぶ台をひっくり返すセンスが必要なのだ。
結果として。ちゃぶ台返しをせずに、大きな起伏のない物語を選択したのは正解だったかもしれない。アリエッティもまた、同じような選択をして、同じように成功しているのだから。また、実際に「コクリコ坂から」は、いま一定の高い評価を得ている。
だけど、もしちゃぶ台が返された「コクリコ坂から」があったのなら、もしかしたら、掛け値なく素晴らしい映画だと言えたかもしれないと、思ってしまう。つい思ってしまう。素晴らしい映画だとコクリコ坂を褒められない心情は、その辺に有って、宮崎吾朗の伸び代も、その辺に有る。
ゲド戦記を見て馬鹿にしてごめんなさい、次回作が楽しみです。

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